ふたたび『観測』
波動関数は 量子の存在(位置・運動量)を
確率的に示しているっていうことに
(今のところ)否定的意見は
出ていないんだ
量子力学で未だに議論が戦わされているのが
『観測問題』と言われる
『人』が『観測』すると
『量子』は『粒子』として
見つけられるってところだね
もっと言えば
『人間』と『観測』ってものは
なにものなんだってことかな
量子の世界は
波動関数に従っている
ここまでは何度も書いているように
科学者の間では
前提として
受け入れられているってこと
問題は観測(人間が)したときに
その波動関数が
消えちゃって(収斂するってことかな)
一点に見つけられちゃうってことなんだよな
なんとか理屈を付けようと
学者さんたちは
頑張っているんだけど
どうしても人間のいる世界の感覚だけで
捉えようとすると
無理が出ちゃうんだよ
実証されていない
『仮定』ってものを
導入しなくちゃいけないっていうのは
物理学者にとっては
あまりうれしくないはなしだものね
その中で常軌を逸しているように見えるけど
なんとなく多くの矛盾を
解決しちゃう説っていうのが
あるんだ
もしかすると コペンハーゲン解釈と
双璧になるかもしれない
この説
多世界解釈って聞いたことは無いかな?
コペンハーゲン解釈の弱点
ぼくを含めて
研究者でない人にとって
『多世界解釈』っていうのは
映画とか小説で
テーマとかプロットとして
使われることがあるから
なんとなくわかっている
ような気になっているものだね
ただ 小説や映画では
『パラレルワールド』のように
並行世界を行き来しちゃう
設定が多いから
じっさいの多世界解釈とは
まるで違ったものになっているけど
1957年っていうから
つい最近なように思えるけど
もう60年以上前にエヴェレットさんが
博士号をとるために論文で発表したのが
この『多世界解釈』
エヴェレットさん自身
博士号をとったら
もう物理学に興味がなくなったのか
以降の研究はしてないみたいだけど
多世界解釈に行く前に
コペンハーゲン解釈を
もう一度振り返ってみるね
ものすごく簡略化した例えだから
誤解があふれることを承知で
シュレティンガーの猫で考えてみよう
(ぼくもよくわかっていないってことは
初めに断っておくけど)
コペンハーゲン解釈では
人間が猫の死骸(元気な猫でもいいよ)を
確認するまでは
生きている猫と死んでいる猫っていう
2つの状態が重ねあわされている
って解釈だね
猫みたいに『マクロ』の世界の
対象だから馬鹿な話に聞こえるけど
猫の生死を決めるのは
ラジウムの放射線(α線)を
検出器が感知するかどうかという
『ミクロ』の世界のはなし
波動関数で表せられるのは
粒子(実像)の位置と運動量の確率
それ以上でも以下でもないはずだよね
だけど 結果として
猫が死んでいるのか生きているのかという
結論が出ちゃう
これのどこがおかしいのかって
わかりにくいと思わない?
じつは数学と物理学の
葛藤があるみたいなんだ。
射影仮説
シュレティンガーさんや
ハイゼンベルグさんの方程式で表せられる
量子論の基本概念だと
時間とともに動いていく量子の存在確率っていうのは
ある意味因果関係が成立しているんだね
業界独特の言い回しだと
「物理系の時間発展は決定論的かつ可逆である」
ってことになるらしい
初期状態とハミルトニアが
(聞き覚えのない言葉だけど
量子の持つエネルギー全てってことかな)
わかっているならば
その結果はユニタリー演算子によって
(また出たわからない言葉だけど 単純
確率合計が1になる演算子のことだね)
決まっちゃうってこと
と いうことは
時間を巻き戻したら
初期状態に戻るってことなんだ
だから波動関数は
因果関係に従っているって
言い方ができるってこと
そのなかで量子が
粒子として観測されるっていうのは
ある意味非決定論で
不可逆って言われる
非決定論っていうのは
波動関数なら初期状態から
導き出される結果は
確率で表せられるけど
観測で一点に量子が決定されるということは
その一点は結果を示す確率の中での
ランダムな予測のつかないものになっちゃう
ってことだね
不可逆的っていうのは
いったん実体として観測された
量子は時間を巻き戻しても
元の波動関数には
戻らないってこと
初期状態には戻せないってことだね
だって粒子として
決定したものを
もう一度確率の世界には
戻せないでしょう
そこでフォンノイマンさんが
このコペンハーゲン解釈の
欠点を解決するために導入したのが
もともと波動関数には無かった
『射影仮説』って概念なんだ
波動関数に『射影仮説』を
公理として設定したってことだね