誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる

雑学を収集しようじゃないか雑学
スポンサーリンク

月は人が見ている時にだけ存在するのだろうか

アインシュタインさんは

けっこういろいろな

警句や例えを残しているみたい

ぼくがよく書く

「神はサイコロを振らない」だって

アインシュタインさんだし

「第三次世界大戦が

どのような戦いになるのかなんて

私には分からない

しかし 第四次大戦なら分かる

石と棒で戦うだろう」っていうのも

そうらしいよ

仕事の3つのルールとして

「乱雑さからシンプルなものを見つける

不和から調和を見つける

困難の中に機会がある」なんて

言っているのは

彼の研究に対する

考えかただろうね

ぼくの好きなものには

「常識とは18歳までに身につけた

偏見のコレクションのことだ」

っていうのもあるんだ

イメージとしては

孤高の研究者って見えがちなんだけど

意外と世俗のことにも

首を突っ込んでいたみたいだね

なんといっても

女性が大好きだったみたいだし

アインシュタインさんは

ボーアさん率いる

量子力学(確率解釈)には

ずいぶん否定的だったようなんだ

例の「神はサイコロを振らない」っていうのは

観測される現象が

偶然の産物だという

量子論の考え方

(因果律の崩壊だね)

どうしても納得がいかなかった

ってことなんだと思うよ

「私が見ていなくても 月はそこにあるはずだ」

一応 アインシュタインさんが

言ったことになっている言葉だけど

観測するまで実体がないとする

量子論への不満が出ていることばとしては

なかなか面白いと思うね

けっして アインシュタインさんが

量子の粒子と波動の

性質を併せ持つという考えと

そこから必然的に導き出される

不確定性原理に

反対の意を唱えたってことじゃ

無さそうなんだ

確率であいまいなまま

状態を放置しようとする

考えかたに異を唱えたかった

ってことじゃないかな

人間がまだ掴み切れていない

なにかの因果関係が

波動関数に記述されていない

未知の隠れた変数があるんじゃないかって

主張していたらしいからね)

量子の世界にもあるはずだって

信念を持っていたってことだね

もっとも だからこそ

相対性理論が

古典物理学に

分類されているのかもしれないけど

誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる

本筋から離れちゃうけど

「月は人が見ている時にだけ

存在するのだろうか?」

っていう問題提起に

思い出しちゃったことを

すこしだけ書いてみるね

この観測と実体の関係は

量子論の考えられる

はるか以前から議論はされていたんだ

アインシュタインさんたちが

量子力学の確率解釈(コペンハーゲン解釈)に

嚙みついたのは

1930年頃だったんだけど

それより200年も前に

「誰もいない森の奥で倒れた木は

倒れる音を立てたのか?」っていう

命題を提起した人がいるんだよね

ジョージ・バークリーって人のことを

哲学の項で書いたかどうか

忘れてしまったんだけど

このバークリーさん

ロックさんの経験論の継承者で

観念論の中で特に

主観的観念論とか独我論とか言われて

批判も多かったそうだ

物事っていうのは

知覚によって得られる観念の

結合・一致・不一致・背反の

知覚が知識として形成されるのであって

全ての観念と知識は

人間が経験を通じてのみ

形成されるものだって

主張だね

これって知覚の部分を

観測に置き換えれば

そのまま量子論につながっちゃうんじゃないかな

もともと哲学の世界じゃ

それこそ古代ギリシャの時代にまで

遡って議論されていた

問題の一つなんだけどね

存在は実体か概念か

概念だとすると

それは実観念なのか抽象観念なのか

プラトンさんの『イデア論』に対する

『唯名論』の議論が

現在でも続いているように

答えは出ないんだろうけど

(今のところは)

また 脱線しちゃうことになるけど

すこしだけこの命題について

書いてみようと思うんだ

木は音を出して倒れたのか?

バークリーさんの出した設問は

「もし今 私たちの知らない

遠く離れた地の誰も居ない森で

一本の木が倒れたとする

その際にその木は“音を出して”倒れたのか?」

という普通に聞けば

ばかばかしい設問なんだ

答えは簡単

当然木は音を立てて

倒れたってことになるよね

ぼくなんかの常識で言えば

そうなるはずなんだ

ところがこの設問

多くの論議を巻き起こしたらしい

そして多く(少なくないかな)の

哲学者たちが

木は音を出していないって

答えを導き出したらしいんだ

このややこしい考え方を

理解するには

『経験論』あたりから

紐解いていく必要があるんだけど

簡単に言えば

すべての事象は

『認知』という作用があって

はじめてその存在が許されるってことになる

但しここで言う事象っていうのは

客観的事象じゃなくて

主観的事象のことなんだけど

単純な言葉で説明するのは

難しいね

経験論でもこの辺りは

主張がわかれていて

客観的事象ってものが

主観とあきらかに隔絶された状態で

存在しているのか

客観的事象なんてものは

もともと無くて

主観的事象がすべてなんだという

あたりで統一はされていないみたいなんだ

世の中の『モノ』ってものが

本当にあるのか

『モノ』なんてものは

人が見ている(認知だね)つもりに

なっているだけの事象なんだ

という意見の違いだね

ぼくの感覚では『モノ』は

実際にそこにあるものだって思うけど

Dゲームや映像を

見せられると

自信はなくなっちゃうよね

現時点の技術でさえ

人の目を錯覚させられるものが

映し出せるとなると

近い将来に

人間の五感をだませる

技術が開発されても

おかしくないと思えるんだ

この哲学命題のキーポイントは

『認知』ってこと

バークリーさんの言葉を借りると

「存在は認知があって

初めて成り立つ」

ってことになるね

このキーポイントの『認知』を

『観測』に変えると

量子力学の確率論そのものに

なっちゃうでしょ

初めの設問の答えを書いておこう

あくまでもバークリーさんの答えだけど

誰もいない森で倒れた木の音は

誰も認知していないのだから

木は音を立てていない

ってことになるらしいよ

コペンハーゲン解釈

はなしを元に戻そう

量子ってものが

「粒子性と波動性を持っている」

ここまでは今のところ

それほど反論無く

認知されているみたいだね

そして量子の粒子としての部分の

位置や運動量については

シュレティンガー方程式が

導き出す結果と

合致するってことも

今のところ異論は出ていないみたい

もうひとつ 量子の観測をすると

かならず単一の粒子として

位置も運動量も

確定するっていうのが

積み重ねられた実験で

導き出されている

となると 観測されていない

量子の世界は

どんな状態なんだろう?

この頃よく見かける

原子の周りに

雲が広がっているという原子模型は

観測されたときには

惑星モデルの原子模型状態を

とっているってことになると

存在意義がなくなっちゃうよね

ただ単に 数学上の模型であって

ぼくたちにとっては

意味なんてないんだから

『因果関係』ってものが

人間のただの思い込みなんだとしたら

この世界にとって

人間なんてものは

意味のない存在だって

ことなんだよね

(じっさい意味なんてないのかもしれないけど)

物理学だけじゃなくて

哲学・自然科学すべての学問が

この『因果律』を求めて

研究を続けているはずなんだ

極端に言えば

因果律が無い場合には

どういう因果で

因果律が失われるのか?

っていうのも因果の

研究なんだよね

だから この因果関係を

否定するコペンハーゲン解釈には

修正しようとする者や

(ハイゼンベルグさんや

ノイマンさんなんかは

修正組だろうね)

反対する者が

(アインシュタインさんが

筆頭株だね)

数多くいたってことは

間違いないことみたいなんだ

そして皮肉なことに

量子力学の

基礎ともいえる

シュレティンガー方程式を

発表したシュレティンガーさんも

コペンハーゲン解釈には

反対(というより相手にしなかったってことかも)

していたみたいなんだ

タイトルとURLをコピーしました