ハイデガー

雑学を収集しようじゃないか雑学
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現象学と現実世界

もともと哲学者ってのは

わかりきったことをわからないように表現するのが得意

っていうと怒られそうだけど

とにかく読んでも理解しにくいものが多いね。

理解したつもりでもじつは的外れってのもあるし

(ぼくだけかもしれないけど)。

ものごとを他人に正確に伝えるためには

むずかしい言い回しになるのは仕方がないとは思うし

わかりやすく伝えようとすると

相手はわかったような気になってくれるかもしれないけど

本質が伝わらなかったりして・・・

他人と意思を共有するのはむずかしいってことなんだ。

その中でもこのハイデガーさん

わかりにくい言い回しをするので有名な人。

考えの中心にあったのは

古代ギリシャ時代から延々と受け継がれている疑問

『ある』ってのはなんだろう?

ってところだったみたいだね。

もともとはフッサールさんの一番弟子

ものごとを捉えるための方法論として現象学を研究してたんだろうけど

『あるもの』を正しく捉えるまえに『ある』ってなに

ってことを解き明かす必要があるんじゃない?

ってことになったのかもしれない。

ハイデカーさんの生きていた時代

世の中の価値観が大きく変化していた。

第一次世界大戦への突入

第一次世界大戦終了後の国家体制の崩壊、キリスト教の無力の暴露

西洋の没落、ハイパーインフレ。

そしてその中からなお第二次世界大戦への火種がくすぶり続け

大戦の勃発、終了。

そんな時代だからこそ存在に対する問いかけに

ハイデカーさんはとらわれたのかもしれないね。

そして現象学は今あるものを正しく認識するための方法。

移ろっていく世界を認識するためには十分じゃないんじゃないか?

認識は個人のものでしかないじゃないか、他者と個人の関係ってどうなっているの?

他者だけじゃない世界(自然でもいいけど)と個人との関係は?

世界と個人との関係の中で『死』のもたらす意味は?

なんて考えが広がっていく。

フッサールさんは現象学的還元を物の捉え方の基礎分野

諸科学(哲学も含んで)の方法論として提唱したように思うけど

ハイデカーさんはそこから次のステップへ進もうとしたんじゃないかな。

デカルトさんが方法的懐疑から明晰判明へ移行していったようにね。

東洋思想

ハイデカーさんのバックグラウンドとして書いたほうが良いのかどうかはわからないけど

東洋思想があげられるのかもしれない。

中国思想、特に老子には興味があったということ。

書斎に「孰能濁以静之徐清。孰能安以動之徐生」という

老子の言葉が漢文のままに書かれていたということだ。

東洋思想ってのは『無常』ってのが根底に流れている。

他者からの救いなんてない

そしてひとは無常を背負っている

その無常とは個人がそれぞれ向き合うしかないんだ、ってね。

ニーチェさんもそうだったけど

西洋、特にキリスト教の熱心な信者が東洋思想に出会うと

人によっては極端に虚無の世界へ旅立つ人が多いから

困ったもんだ。

ぼくたちは慣れ過ぎて鈍感になっているのかもしれないけど

この『無常』の概念ってキリスト教の主題名目

『救済』ってものを全否定しちゃうんだよね。

小松左京さんの小説の中に出てくる一節が

端的に表していると思えるから引用しておこう。

はなしを端折っちゃうとわからないかもしれないけど

西洋から来た人(クリスチャンだよね)が日本の歌舞伎の

『鷺娘』を見てショックを受けるって前提で読んでくれればうれしいな。

――『救済』はたしかに雄々しく正しい思想だ。

だが傲慢からくる自己欺瞞を避けるかぎり

人はいずれ自分の無力さをさとらされる。

個人にできる救済はたかが知れており

悲惨はあまりに多い。

未来における救済を約しても、今、ここに、眼前にあってほろんで行く悲惨は

どうにもならない。

君たちの世界ではその時強引に死後の彼岸にまで『救済』を仮構し辻つまをあわせた。

しかし東には、死後の世界などなく

『彼岸』も『救済』もむしろ生きているもの一人一人の心の中にしかない事を

さとった精神があった。

人の世の悲苦をを見、『無情』をさとり

無情に対する自己の無力をさとることによって

人の世で真の意味で自分の力で救えるものはただ一人

自分自身だけしかいないのだと悟る精神が・・・。

したがってあの『鷺姫』はそのドラマの中での救済など必要としないのだ。

見るものに美しいものの背後にある悲苦を見せ、『無情』をさとらせ

みるものの心の中に救済へむかわせるきっかけをつくり出せばそれでいいのだ。

だからこそ身を業火に責苦にさらして無情の姿をあらわして見せてくれる

美しいものの存在はかぎらなく高く美しく『芸』として尚ぶ価値があるのだ。

自己の無力を徹底的に悟り、自己救済への道を歩み出した上で

なお『社会的行為としての救済』は

―ひょっとしたら自己救済のための必要なプロセスとして―

つづけられるだろう。

君たちが『死の彼岸での救済』を信じてかぎりある『現実的救済』に力をそそぐように・・・。

だがそれは、『現実的救済』は、

死の彼方に仮構されるにせよ己の心の中に見るにせよ

『彼岸』のそれとは別次元のものだ・・・。――

この『鷺娘』、構成としては『白鳥の湖』と似てるんだよね。

西洋だと最後には愛の力によって白鳥は救われるんだけど

鷺はというとどうにもこうにも救いは無い。

もっとも『鷺娘』はフォーキンさんの『瀕死の白鳥』にヒントを得たんじゃないかとは言われているけど)

でもこの鷺娘と白鳥の湖の捉えられ方は

キリスト教思想と東洋思想を端的に表している・・・

そんなふうにぼくは思っているんだ。

ハイデガーさんの個の人間と死との関わり合いなんかを読むと

どうしても東洋思想に感化されているように思えるんだよな。

ハイデガーさん当然のことにガチガチのキリスト教徒だった。

西洋の哲学者たちがキリスト教徒だったのは普通のことだけど

その中でもけっこう敬虔な信者だったらしい。

もっとも人生の途中でカソリックからプロテスタントへ

宗旨替えをしているけど。

もう一つ付け加えておけば、ヒトラーに信奉していたともいわれている。

ナチス党に入党していたのが実際に共感してのことなのか

実利(大学の総長にナチス党の力でなっている)のためなのか

じっさいのところはわからないけど

反ユダヤ主義的傾向があったという証言はあるんだよな。

存在の問い

脱線しちゃった。

どうも東洋思想系『無常』あたりが出てくると

ついつい脱線してしまうね。

ハイデガーさんの存在とはなんだ?

に話を戻そう。

ちょっと面倒くさいけどお付き合いをよろしく。

さて、『存在とは何か?』を問うってことを考えるためには

まず『問う』とはどういうことなのか?

から始めなけりゃ話は進まないでしょうってのが

ハイデガーさんの言い分。

たしかに正確を期するにはそうなっちゃうんだけどね。

で、『問う』ということには三つの要素があるってことになる。

ひとつは、問われているもの

なにを問題にしているのかってことだね。

ふたつ目は、問いかけるところ

『だれ』にでも『なに』にでもいいけど答えるのは誰かってことかな。

三つ目は、問いによって求められたもの

なにを知りたいのか、求めているのかってこと

もしくはどんな結果が出るのかってことかも。

これを存在の問いってことで考えれば

問われているものはとうぜん『存在』とはなんだ? ってことだよね。

問いかけるところはハイデガーさん『存在者』ってことにしている。

この『存在者』とか『現存在』なんてむずかしい言い回しをするから

わかりにくくなるんだけど

さらっと流すなら『存在者』=『人間』くらいに考えていいと思うよ。

ついでに言っておくと『現存在』ってのは『自分』のことぐらいで

考えておくとわかりやすくなるかも。

もっと厳密に考えたいのならハイデガーさんの

わかりにくい論文を読んでみて。

問いによって求められたものってのはもちろん『存在の意味』ってこと。

ぼくたちは科学的に考えたり知識として持つ前から

世界は存在しているって考えているというか知っているよね。

単純に存在ってものを感じているんだけど

そこに余分な知識や他所からの情報が入ってくるから

単純に感じているものと頭で考える存在ってものが

ギクシャクしてくる。

だって、地球が丸いって知識では知っているけど感じている?

地球が回っているからお日様が動いているってことになってるけど

地面が動いているって感じるかな?

遠くを見たときに水平線が曲がっているのとか

太陽が東から上って西に沈んでいくのは感じられるけどさ。

だから、実際『存在』とは何か? を考えるんだったら

まず人間ってものを問うことが必要になるってことだよね。

もうひとつ、存在者(人間でいいよ)が存在していることを前提にして

人間てものの性質や他の人間たちとの関係(存在的ありかた)を問うってのと

人間ってものが本当に存在しているのかどうか(存在論のありかた)を問うってのの

このふたつの意味の違いを区別する必要もあるんだよね。

デカルトさんの『方法的懐疑』もそうだったけど

ひとつの前提を立てるとその前提を成立させる前提が必要となって・・・

ってのが、次から次へと続いていくんだよね。

そうやって突き詰めていったハイデガーさん

ここまできてまたひとつの問題が出て来たんだ。

存在者と現存在

これはどういう関係性をもっているのだろうって。

存在者と現存在

ハイデガーさん、存在を問ううちに

ひとつの問題にぶつかったんだろうね。

これってこれまでの哲学者もぶち当たっていたはずだし

哲学が学問である限り避けられない問題。

人間にとって存在とは? と

わたしにとって存在とは? って問題。

『人間』としてひとくくりにしちゃうと

あの人もこの人も同じになっちゃうんだ。

でも人間ってものはわたし・あなた・彼・彼女みたいに

絶対的に異なった存在なわけ。

それぞれが自分だけの現実に直面しているし

その現実に対応できるのはその人以外には無いだよな。

人はそれぞれに固有の現実を持っているってこと。

だから人間というくくりじゃなくて

個々を『現存在』、『現存在』以外の他者を『存在者』という

区別をつけて考えないといけないってのが

ハイデガーさんの考え方。

当然現存在は存在者に対して存在論的優位があるってことになる。

(存在論的疑問ってのは存在者が存在することそのものへの疑問だね)

このあたり読むとややこしいけど

じぶんはこう考えるから同じ人間

他の人もこう考えるよねってことはありえないんだよ。

もっと極端に言えば、じぶんは確かにいるよね

でも周りの人たちって本当にいるの? ってこと。

現存在ってものを考えるときに

その現存在ってのは世界の中にいるってことが大前提。

じぶんは実際にいるし、周りの物も確かにあるよってことが前提になるってことだね。

世界というとわかりにくいけど

現存在が生きている世の中ってことかな。

ぼくやあなたが生きている世界ってこと。

考えてみてほしい

あなたを『現存在』ってことにすれば

周りにいる人たちは『存在者』ってことになるんだけど

現存在(あなただね)にとっての存在者ってのは

身近なひとたちってことになる。

だから他者とか人々って言うけれど

それは世の中のすべての人々っていうのじゃなくて

現存在が自分自身と関連性を持つ人々ってことになるんだ。

世間だとか国民や民衆ってものは

現存在にとっては存在者にも当たらないし

そのことばや考え方にはなんの妥当性も信頼性もないってことになっちゃうんだよな。

現存在と存在者との間で認識のギャップがおきることは当然のこと

あなたとあなたの知り合いの間で

意思疎通が完璧にできることはないし

あなたにとってはあなたが現存在として周りの人より

存在論的優位に立っているけど

他の人にとってはあなたは存在者

とうぜん存在論的には劣位にいるってこと。

でもね、あなたにとってあなたが他者より優位にいるということは

じぶんという存在が重たいものになってしまうんだ。

だから他者に判断をゆだねようとしてしまいがちになる。

でもそれは『非本来性』(本当の人間の生き方じゃないよ)でしかない。

他者に判断を委ねずに自分の在り方を自分で責任をもって選択する

これこそが『本来性』(正しい人間の姿かな)として現存在の役割なんだ。

同じ現象に出会ったときに

現存在と存在者とでは認識の違いが生まれるときがあるし

現象そのものが誤解を招くような姿で認識されることもあるよね。

だけど、そのことにも存在というものを知るための重要な意味があるんだ。

そこに見いだされるイレギュラーな認識から

本来の存在の意味を理解するために現象学って方法論があるんだよ

だから現象学ってのは解釈学とも言えるってハイデガーさんは言っている。

ハイデガーさんの手法がしばしば解釈学的現象学って呼ばれるのはそのためなんだ。

存在者と現存在にはまだ違いがある。

存在者ではなく現存在には生まれてから死ぬまでの

時間の中で生きるという限定があるってこと。

死ってものはその人だけのものだし、確実に訪れるもの

そしてそれがいつなのか知ることができないという意味であいまいなもの。

現存在は死に出会ってはじめて死ってものと関わるんじゃなくて

生きているってことがすでに死とかかわっている存在。

死ってものがなにかということを問うことで

存在とか実存とかの真理を探ることができるはずなんだ。

人間とは死と関わる存在だし、その死ってのはじぶんだけのもの。

言い換えれば死との関りがじぶんの在り方を決めちゃってるって言ってもいい。

死こそが他の存在者から現存在を区別する

ある意味追い越されることのない可能性って言えないかな。

死を捉えることこそが人間の生き方の探究の

可能性を秘めているって言ってもいいと思うね。

「もっとも現存在は日常平均的には死を隠蔽し死への不安を阻害する」って

ハイデガーさん痛いところをついてくるけど・・・

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