科学から哲学へのアプローチ

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哲学の細分化

アメリカの哲学は独自の核ではなく

西欧哲学の独自解釈だって書いたけど

現代に入ってからはヨーロッパ系哲学だって

似たような状況になっていくんだ。

とうぜんかもしれない

人間の本質っていうのか、シンプルな疑問ってのは

出尽くしているのかもしれないからね。

根本は『わたしって何?』だろうと思う。

ぼくのよく言う

心の深淵をのぞき込むってのもそうだろうし

じぶんの存在意義ってのはなんだろうもそうだね。

多くの人が頭ではわかっていても

じぶんが消滅するなんて考えてないと思うよ。

今現在存在する『わたしって何?』が第一の疑問じゃないかな。

で、まわりふと周りを見渡した時に感じる疑問

『わたしってただの人間なんじゃない?』

ただ単に生き物としての個体だとしたら

とうぜん死ぬこともあり得るし

他人との関係のなかでのじぶんの位置づけってのが

気になりだす。

そうなってくると『人間ってのはなんだろう?』って

疑問が出てくるよね。

人類ってのは単に地球って星のせいぶつの延長上にいるのか

それとも特別に選ばれた存在なのか。

不思議なことに、周りのすべては自分のために

存在しているんだって思いこんでいる人は

あまり出会わないけど

地球・自然ってものは人類のために存在しているって

おもっている人は結構いるみたいだよ。

このあたりから宗教のほうに分岐したりするんだろうね。

哲学って、学問もしくは他人に伝えることをベースに成立しているから

方向として他人や世界が『在る』ってことを前提にしなくちゃ

成り立たないんだよな。

ぼくとしては自分個人の心の奥底をのぞき込みたいんだけど

それじゃ学問としては成り立たないんだから

あきらめたほうがいいかもね。

だから『わたしって何?』の疑問の大前提として

わたしは人(人類)である

世界は『もの』として存在している

ってのがあるはずなんだ。

人ってのが身体と心(精神でも魂でもいいけど)に分けられるのか

二つがそろって人なのか。

もの(存在)ってものの正体はどんなものなのか

それともその正体は人には理解できないものなのか。

そう、よく書くけど『真実』と『事実』の関係を考えていくってのが

哲学の命題になっているんだとおもうよ。

だから哲学が哲学である限り

新しい命題ってのは出尽くしているんだろうね。

根本命題は変わっていかない

でも、方法論は変わっていく。

19世紀から20世紀にかけて

自然科学の発達は目を見張るようなものがあったんだ。

とうぜん哲学にもその実証科学の手法を

あてはめようとする流れが出てくる。

哲学も実証を求めるようになってきたんだよな。

ソシュール

プラグマティズムを提唱したパースさん。

彼の『理性』に対する分析の中で

「わたしたちは記号を使わずに考えることはできない」ってのが

あったのを覚えているだろうか。

記号ってのはことばであったり数字や公式であったりするんだけど

考えてみるとじっさいじぶんがものを考えているとき

ことばであったり、画像であったりを

イメージしているような気がするね。

「絵にも書けない美しさ」のものって

ことばとしてはすごくよくわかるけど

どんなものかは(少なくともぼくには)イメージできない。

ことばってのはそれだけ考えるってことの

主要な要素なんだ。

ソシュールさん、近代言語学の父って呼ばれている。

この『近代』ってのは構造主義言語学の意味らしいけどね。

それまでの言語学ってのはことばの歴史的なながれを

扱っていく『通時言語学』ってのが主流。

その時(ある時)のことばの構造や現象を扱う

『共時言語学』を組み入れていったのが

ソシュールさんってこと。

文ってのは単語と単語、そしてそれらをつないでいく

関係性を表す補助単語で成り立っているよね。

補助単語って言ったらわかりにくいかもしれないけど

関係詞やなんかのこと。

構造主義の言語学ってのは単語を要素

要素間の関係性示すものが構造って考え方。

ことばの構造といっても

個人の感覚・感情から出てくるメッセージもあれば

社会的に共有されるコードもあるんだ。

このだれにでも共通につかわれる言葉のほうを

対象にするのが『共時言語学』ってこと。

言語学だから今使われていることばだけじゃなくて

歴史の流れの中でのことばがあるけど

その時のつかわれている共通のことばの意味を

調べようってことかな。

この「その時に使われている共通の言語」のことを

『ラング』って呼ぶんだけど

この『ラング』ってのは二重構造になっている。

ひとつは音節としての単語。

たとえばリンゴなら

リ・ン・ゴ ringoって音としてのことば。

もうひとつは概念としての単語

リンゴってことばを聞いて

イメージするものってあるじゃない。

この「概念の単位」ってものをつかって

人間てのは現実世界を切り分けているってことだね。

でも、その切り分け方は全員が共通しているもんじゃないんだ。

音節によってつくられた単語の設定てのは

地域や時代でそれぞれ好き勝手になされている。

リンゴだって『リンゴ』『アップル』『ピングォ』『ポム』

いろいろあるもんね。

状況や個別のものにどれだけ細かく音節を設定するかなんかも

好き勝手になされちゃうんだ。

だからその選択の違いがその言語に固有の語体系を作ることになるんだけどね。

「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」

この二つの体系がひとの思考を作りあげ

音の体系の違いが誤解を生んでしまうのかもしれないよ。

フッサール

さて、フッサールさんだ。

まともにこの人の『現象学』を書こうとすると

とてもじゃないけどブログ程度の構成じゃ書けないよね。

もっとも昔の哲学者たちも簡単に書けるもんじゃないけど

なんといっても時代が近くなってくれば来るほど

情報が増えすぎるんだよ。

フッサールさんも初期のころの論文と

後期のころの論文とではすこしニュアンスが変わってくるもんだから

どの部分を捉えるかでイメージが違うよね。

でもそれは仕方がないことなんだ。

ひとつの仮説を立てて、それを深く追求していくと

修正点ってのは当然出てくる。

学問なんてそんなもの

今ある当然の結論なんて将来において否定されるまでの間の

仮の定説でしかないんだから。

フッサールさん、多くの哲学者たちと同じように数学が得意。

数学って言うのは論理を扱うには必要不可欠なのかもしれない。

そしてソシュールさんもそうだったけど

『考える』ってことはなんだ?

その考えるの前提としての物の捉え方に目を向けていく。

このあたりってデカルトさんにも通じるものがあるんだけど

フッサールさんも哲学(論理学にしても他の科学にしても)の

方法論としての『現象学』を研究していた様子があるんだ。

『真実』と『事実』の関係性。

そう、考えているじぶんとじぶんの外側にある世界との関係性。

ぼくみたいにひとりでああでもないこうでもないなんて考えるだけなら

適当にひとりで納得しておけばいいんだろうけど

哲学が学問である限り他者との情報共有が必要とされるんだよな。

それをどのようにして一致させるか

一致しないまでもどれぐらい誤差があるのかを

共有する方法を打つ出さないと学問にはならない。

デカルトさんは方法的懐疑ってもので

すこしでも疑わしいものは却下、無いことにしようってことにした。

フッサールさんは疑わしい、もしくはよくわからないものは

ひとまず保留、判断を差し控えておこうって感じだと思うね。

ぼくたちはどうしても外部の世界を知るためには

外部観測器官(目とか耳とかだね)を通して情報を入手

それをじぶんの中の経験で『知る』ことになるわけだ。

観念論みたいに経験が無くても理性には

もとから『知る』能力があるって主張は当然あるけど

仮にその能力があったとしても

『知る』ためにはなんらかの言葉や記号が必要とされるんだよな。

だからフッサールさんの言う経験てのは

実際に経験したことってことじゃなくて

意識が意味を与える(意味付与作用)ことができるものってことだね。

でもその意味付与作用があるとどうしても入ってくる情報に

バイアスがかかっちゃう。

だから入ってくる情報を理性が解読するときに

情報に付けられた意味ってものをいったん保留(よくカッコに入れるって言われるけど)

することが必要だってことなんだ。

これが『現象学的還元』って言われるもんなんだけど

さてうまく伝わるかな?

本当に他者と情報共有するって

むずかしいよね。

現象学

ものを知覚する(認識する)ってことが

どんなかたちでされようとそれは心的体験だってことになる。

これまでの哲学者が取り組んでいた主観と客観・事実と真実の問題だよね。

どうがんばっても外部世界の情報は

人ごとに変形されて入力されてしまう。

個々の人ごとの観測器官も違うだろうし

それまでに経験してきた事柄、地域、時代によっても

変わってくるのは当然。

とうぜん言語体系も違うだろうから同じものを認識したとしても

心的体験は異なったものになっちゃうんだよな。

視覚

虹って何色?

日本じゃ七色、赤・橙・黃・緑・青・藍・紫ってことになっているよね。

でもアフリカのある一族では八色、アメリカ六色、ドイツ五色

インドネシアの一部では四色、台湾の一部では三色、二色ってところもある。

聴覚

犬の鳴き声は?

日本じゃ「ワンワン」、アメリカ「バウワウ」、スペイン「ラドラール」

フランス「ワフワフ」、イギリス「ウーッ」、ロシア「ガフガフ」

インドネシア「グッグッ」、中国「ウォンウォン」

代表的な五感でも国(地域だね)によって

これだけ変わるんだよ。

たしかにだれだって犬が「ワンワン」って鳴いているなんて聞こえてないけど

たとえば日本だと他人と共有する『認識』のためになら

「わんわん」で通じちゃうんじゃないかな。

これは好き嫌いにだって影響する。

豆の腐ったような納豆だって

うまいという人もいれば見るのも嫌だって人もいるんだから。

たまたま地域の違いで例を挙げたけど

同じ地域、同じ時代の人間どうしの認識共有だって

じつはわかったような気がしているだけだってことは

十分に考えられるんだよな。

現象学(特にフッサールの現象学的還元)はそのバイアスの部分を

いったん保留(カッコに入れる)にして

確実な部分だけをピックアップすることによって

外部世界の認識を共通認識に近づける。

ってことじゃないのかな。

ここに書くためにもう一度調べなおしてみ

ぼくの記憶の中のイメージと微妙にずれていて困っているんだけど

ぼくのイメージにあった現象学は

1:外部世界は意識(心だね)に投影されない限り意味がない。

2:同じ対象でも個々の人の意識の中では異なる投影がされる。

3:外部世界を共通認識とするためには対象の構成を確定される要素の部分に分け

 その細分された確実な情報を共有することによって共通認識が得られる。

って感じだったんだけど。

これって『アナログ』情報の『デジタル』化

すべての構成要素を『1』と『0』での記号表記

いってみれば哲学における古典力学から量子力学への移行みたいに思えて

感動した記憶があったんだけどな。

もっともフッサールさんこの現象学的還元という認識方法を

あくまで哲学(その他の科学にもだけど)の基礎という捉え方を

していたような気がするのはぼくだけかな。

デカルトさんは方法的懐疑(とにかく何でも疑っちゃえ)で

ひとつの認識方法を確立した後

明晰判明で次のステップを目指したよね。

でもフッサールさん

それ以上のことは次の世代へ預けようとしたんじゃないかな。

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