形而上学クラブ
アメリカって『なんとかクラブ』って感じで
名前を付けるのがすきなんだよ。
だから、ネーミングにあまり意味を持たせないほうが
いいかもしれない。
時代はある種の混沌時代
1870年代のアメリカは
南北戦争(60万人以上が死んだそうだ)が終結。
第二次産業革命の真っ最中。
開拓を広げたためのインディアンとの衝突。
『金ぴかの時代』と呼ばれる貧富の格差と
政治の腐敗。
思想で言えば
ダーウィンの進化論とキリスト教との整合性の問題。
自然科学の発展に伴う過去の常識の変更。
哲学では観念論の基礎となるべき
外界の存在や他人との認識の違い
『真実』と『事実』、『事実』と『事実』の行き詰まり。
そんな混沌、激動の時代に
若手の研究者が集まって(二週間に一度だったらしいけど)
意見を交わしていた会合を
『形而上学クラブ』って名付けたらしい。
プラグマティズムってのは
『行動主義』とか『実用主義』なんて訳されるけど
もともとはギリシャ語のプラグマ(行動)。
カントさんが純粋理性批判のなかで使ったところから
きているんだね。
哲学の大問題『真実』と『事実』
主観と客観でもいいけど
理性じゃ純粋な世界のことはわからないよって
考えられているのをなんとかわかる方法がないかな
簡単に言えば純粋世界の意味をはっきりさせるためには
どうすればいいのかってこと。
概念と科学知とを一致させるにはどうするのか。
もっとややこしくいえば
科学知的概念の意味を確定する方法って書いてあるけど
ほんとうに教える気があるのかな?
少なくともぼくには正確に伝わってこないね。
まあ、概念を言葉で伝えたときに
相手にできるかぎり正しく伝えるための方法ってことかもしれない。
そのためにはその概念がどんな結果を引き起こすのか
科学的・実験的に測定して
その概念がもたらす結果は一定条件を満たしさえすりゃ
だれにでも実験的に確かめられるもんじゃなきゃダメ。
そして最終的にはほとんどの人の
意見の一致ができるものの必要がある。
って、そのとおりなんだけどね。
どこかすっきりしないのはなぜなんだろう?
どうしてこれが論理学・心理学・物理学
現代だったら工学・統計学にまで
影響を与えているっていわれているのか
もうひとつピンとこないんだよな。
パース 『物自体』の否定
現代ではアメリカを代表する哲学者に名を連ねているけど
生きている間は不遇だったみたい。
パースさん自身は哲学に興味があったみたいだけど
周りからの評価は違ったみたいだね。
じっさい本人も数学や科学の
形而上学的に見れば花や実の部分で
才能を発揮させていたんだ。
ただ問題は、哲学が何を指すのかってこと。
形而上学、形而下学なんて分けちゃってるけど
ひとまとめにして哲学でくくっちゃえば
おかしくはないのかもしれないね。
なによりこれまで書いてきた哲学者の多くは
数学から入って来てるんだから。
数学と論理学
このあたりは哲学を他者と語るときには
必須にってことかもしれない。
パースさんの出発点はカントさん。
悟性・感性から得られる直感と
理性から得られる世界と
『物自体』と呼ばれる人間には認識できない世界。
ことばはややこしいけど
観たり聞いたり触ったりして感じるものが『直感』
それをまとめ上げて主観的に世界を捉えるものが理性。
本来の世界ってのかその人(肉体)の外にあるのが
その本当の姿は人間にはわからない『物自体』。
ってことかな。
(シンプルな言葉で書いちゃうとどこか違うような気もするけど)
カントさん、理性で理解することってのは
本来の世界とは別もんだよ。
もしかすると感性と悟性で捉えたものを
理性を通さずに判断する『直感』のほうが
正しい認識をしているかもしれないってことを
言っている。
それだけ人間てのは本来の世界ってものは
理解できないんだよってことなんだろうけど
パースさんこの『物自体』に疑問を投げかけた。
直観てのは前後のつながりのない
それだけで完結する「前提なき結論」みたいなもんでしょう。
だとすればその『直感』で捉えたものは独立してるよね。
でないと他の人とおなじものを感じても
違う感覚になるってことは無いもの。
じゃあ、理性で捉えたものって独立している?
感性・悟性からの情報を分類・整頓して
ものごとを考えるって作業を経て出た結論が
理性で捉えたものだよね。
これが独立したものだとして『物自体』を考えてみようよ。
これは人間には絶対にわからないものだって結論付けてるよね。
理性はこの「人間には絶対にわからないもの」について
考えることができるって矛盾してない?
パースさん、そこでひとつの結論を出したんだ。
認識可能性(広い意味での)と存在そのものは
哲学という世界では同じものだとするほうがいい、って。
これってカントさんの『物自体』の
否定でもあるんだよな。
カントさんのというより
プラトンさんやデカルトさんとつながっていく
観念論にパースさんは待ったをかけたんだけど
だからといって観念論の全否定でもなかったんだよ。
一時期は経験論(人ってのは経験しないとなにも理解できないよ)も
勉強していたみたいだけど
『物自体』って考え方は否定しても
もともとある世界ってのは存在するってところは
観念論を引きずっているんだから。
パース プラグマティズム
カントさん流『物自体』、プラトンさんのイデアにしても
『真実』と『事実』ってのが哲学の主要な命題だね。
認識論ともいわれるけど
パースさんの『認識可能性』と『存在』ってのも
この命題のひとつの答えなのかもしれない。
パースさんの時代
科学の進歩と実験を重視する風潮が強くなっていた。
もちろんパースさんも数学と科学に精通していたわけだ。
そこで『理性』の働きにパースさんなりの解釈を
打ち出している。
*わたしたちには自分自身の精神を観察する方法は無い。
精神に対するわたしたちの知識は
外的事実に関するわたしたちの知識から
仮説的に推論される。
*わたしたちには前後のつながりのない物事を理解する能力はなく
すべての認識はそれ以前の認識によって論理的に決定される。
*わたしたちは記号を使わずに考えることはできない。
*わたしたちは絶対的に不可知なものの概念を持つことはできない。
って。
これってある意味、的を得ていることだと思うよ。
自分自身を観察する能力はないってのは当然だよね
観測装置がないもの。
ではどうやって内部の状態がわかるのか?
自身の外部情報と照らし合わすことによって
推測してるだけ。
わたしたちは変化のないものを認識できない。
現状の前の状態があってはじめて
現状を理解できる。
この変化って、移り変わっていくってことじゃないよ。
変化しないってのも変化なんだけど
わかりにくいね。
記号。ことばだったり数字だったり
対象をいったん別の記号にしなくっちゃ
ものごとは考えられない。
コンピュータだって1と0で物事を考えるんだものね。
絶対知覚できないものは考えることさえできない。
言い換えれば知覚できないけど考えることができるものは
絶対知覚できないものじゃないってこと。
さあ、これらの仮説からなにが出てくるのか?
まず、ひとが不思議に思ったり理解が及ばないって
疑問を抱くってことは絶対に
知ることのできないものじゃないってこと。
知ることができるってことはそのことを
記号に置き換えることができる。
記号に置き換えられた事象には
必ずその前段階の事象がある。
そのもの自体を観測できない知識(記号)であっても
そのものの外部情報と照らし合わすことで推測できる。
純粋に哲学観点からすれば演繹的合理主義と帰納的実験主義の間の
実験仮説的推論ってことになるんじゃないかな。
昔からある『推論』という方法論の確立。
これがパースさんのプラグマティズムとして
有名になったのかもしれない。
もっともパースさんは前述のように
それほど当時としては評価されていなかったんだ。
このプラグマティズムを有名にしたのは
ジェームスさん。
このひとは哲学者としても分類されているけれども
どちらかといえば心理学者としてのほうが有名だよね。
だから今回はパス。
パースさんとジェームスさん
同じ立場にいるようにされているけど
じつは意見としては相違点も多かったみたいだね。