さあ、アメリカに渡ってみよう

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宗教と哲学

ここまでヨーロッパ系の哲学の紹介が多かったよね。

東洋系や中東系の哲学なんかはおもしろそうなんだけど

踏み込むには少々覚悟がいるんだよな。

それ以外にも踏み込んだら奥の深そうなところが

いっぱいあるんだけど

今回はすこしだけ休憩のつもりで

アメリカの哲学なんてのをみてみよう。

どうやら哲学ってのは

二つの方向に向かう傾向があるみたいなんだ。

ひとつは個々の人の精神の奥底を

のぞき込もうとする方向。

もうひとつは人類ってものの中での

人間の在り方を考えようとする方向が。

これって人間ってのを『人類』として捉えるのか

ひとりの人、『わたし』として捉えるのかの問題だよね。

ただ、学問として成り立たせるためには

自分のことだけを語っても意味はないよな。

だからどうしても哲学ってのは

『人類』を向くんだと思うよ。

ぼくが求めているのは

『わたし』のほうなんだけど

それを他人(いかに偉大だと言ってもね)に教えてもらえるとは

とても思わないけど

なにかヒントが拾えればくらいに思っているだけなんだ。

さて、哲学なんて大げさなことを考える前から

人間ってのは『なぜ?』って疑問を持つ

生き物だそうだ。

このあたりが人類以外の動物とは違うところなのかな。

こどもがどんなものをみても

『なぜ?』『どうして?』って聞くのと

おなじかもしれないね。

(こどもの疑問は「それがじぶんにどんな関係があるの?」ってことらしいけど)

そうやって疑問を重ねていくと

いつしか、どうやら人間には力の及ばない

なにか不思議な力があるんじゃないの?

って考えるようになる。

そこで『神様』の登場だね。

「太陽ってなんだろう?」

「あれは太陽の神様なんだよ」

「雨ってどうして降るの?」

「神様が降らしているんだよ」

ってな具合に。

そして、人間にはどうやら持って生まれた

思考機能があるみたい。

ひとつは『因果関係』を欲しがっちゃうってもの。

もう一つが『類推』(似たようなものに対比させて考える方法)

そのなかでも特に人間に例える『アナロジズム』は

無意識に持って生まれた認識機能らしい。

このふたつに基本的な疑問と神様の合体

原始宗教の出来上がりだね。

だから神様が個性や性格をもつ

『人格神』とされるのは当然のことなんだ。

そうして時代は移っていく。

またここでもシンプルな疑問が出てくるわけだ。

そんな『人格神』なんてものが本当にいるの? って

自然の不思議って実はそんな神様が起こしているんじゃなくて

他に原因があるんじゃないの? ってね。

ギリシャ哲学がスタートしたのは

このあたりの疑問に答えようとしたからじゃないかな。

でも勘違いをしないでほしいんだ

自然の不思議は神様が起こしているんじゃない

って古代ギリシャ哲学者は言い出したんだけど

その『神様』ってのは『人格神』のことで

『神』そのものを否定していたわけじゃないってことを。

哲学の中に出てくる『神』って概念はむずかしいんだ。

特にキリスト教圏ではややこしい。

東洋や中東でも(もちろん世界いたるところでもだけど)

神の概念はあやふやになるところはあるけど

イスラム教や仏教だと『神』が『宇宙』や『世界』と

同じ視点にいてくれているから混乱が少なくて済むんだよな。

(だから逆に解釈がむずかしくなっちゃうんだけど)

でも、キリスト教はだれかが『三位一体』なんて言っちゃったもんだから

キリスト教徒の人も、協会も大変だったと思うよ。

つじつまを合わせるために

そうとうな苦労があったんだろうね。

だから歴史で言えば

中東・東洋・インドなんかも長いけど

それほど根本思想は混乱しなかったように思う。

それに比べてヨーロッパじゃキリスト教の影響がすごすぎた。

ただ単に真理を探究しようっていっても

キリストの神さんとの整合性を

考えなくっちゃいけないんだから難しかっただろうね。

そして無理やりこじつけた理屈を長い間蓄積させてしまうと

そう簡単には変われないものになっちゃうんだ。

車ならハンドルを切ると同時に

方向を変える力が働くけど

大型船の向きを変えようと思ったら

時間がかかるのと同じこと。

西洋じゃ古代ギリシャ哲学とキリスト教

これが19世紀にはいってもベースになっているんだからね。

もっともヨーロッパの個々の国々が

ずっと安泰だったかといわれたらこまるけどさ。

アメリカ哲学

で、アメリカだ。

なんといっても歴史が浅い。

アメリカ大陸特有の文化や思想は

あったはずだけど

15世紀あたりから西欧列国の植民地にされていた時代に

もとからあった先住民の思索は

薄れていったんだろうね。

だから、ベースとなる思想の多くは

ヨーロッパから受け継がれたものになっちゃった。

ただ問題が一つ。

植民地時代はヨーロッパの各国が

バラバラに入って来たんだ。

だから思想もバラバラに。

イギリス、フランスがメインだったけど

オランダ、スウェーデンそれにスペイン

それぞれが陣地取りに参加していた。

入植者だって新天地に希望を持ったものに

母国から逃げてきたもの。

囚人の流刑地扱いにされてた部分もあるんだから

もうぐちゃぐちゃ。

イギリス、フランスが中心ではあったけど

この二国が仲がいいわけもなかったし

国内だって統一された思想があるわけでもなかった。

だからアメリカの哲学ってのは

独自の核になる特徴ってのは

あまりないんだな。

アメリカ内外問わず

アメリカ人による哲学研究とその成果全般を

アメリカ哲学って名乗っているけど

本質は西欧哲学の独自解釈ってことみたい。

それでもさすがに新しい国

解釈の仕方には独自の感覚が反映されているようには思えるね。

なんといっても若さってのは

強いんだから。

キリスト教

西欧が植民地政策に力を入れているときの

植民地支配の方法のひとつに

宗教支配ってのがあったんだ。

宗教ってもちろんキリスト教なんだけど

武力で制圧したところで内部の不満はおさえられない。

だから上の者には絶対服従って風に解釈を変えた

キリスト教を布教させるってことだね。

第二次世界大戦に負けた後

某国から教育支配を受けた日本みたいなもんだよ。

キリスト教ってのはすごい

どんな武器よりその威力は絶大なんだから。

ただアメリカにその宗教支配ってのは

むずかしかったんだ。

実効支配する相手が現地の人々じゃなかったってのがひとつ。

植民地政策を施す相手が同国人だったんだよね。

もうひとつは思想と同じで

種々の国から教義が入ってくる。

同じキリスト教と言ってもおたがいに

反発している教義もあるんだからこまったもんだ。

アメリカ植民地時代から独立にかけての間は

キリスト教も激動の時代。

植民地初期はカトリックからはじまっているけど

宗教改革・宗教戦争の後は圧倒的にカルビン主義

(プロテスタントの一派ピューリタンだね)が席巻。

それと同時期に入ってきた啓蒙思想

(理性と経験を中心に考えようよってやつだね)が

まじりあって独特の特徴のある時代だったってことだね。

おかげで、初めのころは

宗教支配がうまくいっていたようにみえたけど

独立戦争からフロンティアへと

どんどん開拓を進めていった活力のある国・人々に

神を説いたところで現実のほうに目を向けちゃうのは

しかたがなかったんだろう。

だから、後半には理性と科学が台頭してきて

思索は実務(政治・経済)の方向に

向かうようになっちゃった。

もちろんものごとには反動ってのがくるんだ。

やはりこれもヨーロッパで流行っていたロマン主義が

徐々にアメリカでも力をつけてくる。

ロマン主義といってもアメリカ流ロマン主義って感じかな。

組織化された宗教や権威科学や通念なんかどうでもいい

人はその直感と個人の省察がすべてだよ

っていう少々乱暴なロマン主義が。

そしてもうひとつそのころに

ダーウィンさんの『種の起源』が

アメリカにも入ってくる。

これもアメリカ独特の味付けがされることに

なるんだよな。

『適者生存』

本来ならば生き物の進化の原動力の説明のための論理が

人間社会の中の淘汰に置き換えられて

社会ダーウィニズムってものが

作り出された。

片端からいろんなものを鍋にぶち込んで

煮込んだみたいなもので

収拾のつかない様相を呈していたんじゃないかな。

でもね、たかだか二百年の間で

これだけ思想がうごいていくってのはすごいことなんだよ。

やはり若い国っていうか『若い』ってのは

それだけで価値があるのかもしれない。

そしてそのなかで出てきたのが

『プラグマティズム』

ってことなんだ。

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