そろそろ腰をあげなくっちゃ
古代ギリシャから近代まで
駆け足で、しかも行き当たりばったり哲学者の書いたことならべてきたけど
そろそろ現代の哲学者のほうにも目を向けていこうかな。
現代哲学ってあまり読んだことがないけど
すこしずつでも知識を大雑把に詰め込んでいけば
またなにかに出会うかもしれないもんね。
ここまで書いただけで
論理学の必要性と
数学の必要性がでてきたんだもの。
まだまだ調べたり書いたりするところがいっぱいあるけど
どうやら細かいところは
調べても言葉の使い方や考え方の相違
ようはコミュニケーション手法の問題のところが多いように思えるから
あとから時間のある時にやっても問題ないんじゃないかな。
ただ、西洋以外の哲学体系や
『神』ってのは
本腰を入れないとどうしようもなさそう。
だからいったん一休みから
また思考の散歩にもどったほうが
いい時期かもしれない。
でも、ここまでのことを考えてみると
なんてぼくってのはものを知らないんだろうっておもうね。
誰かさんみたいに
『無知の知』だって威張れるのは元の部分で大量の知があるからで
からっぽのぼくが「ぼくはものを知らない」なんていったら
まわりからいっせいに「そうだ」「そうだ」って言われるて終わるだけ。
まあいいか。
どうせじぶんだけの楽しみ兼時間つぶし。
わけがわからなくなって迷走したって
良しとしよう。
さてここまでの哲学の流れの中で
共感できたところだけ抜き出しておこう。
ひとってのは直接外の世界と
触れ合うことができないんだよって
そのとおりだよね。
感性・悟性・理性
で世界とつながっている。
前にも書いたと思うけど
ぼくのイメージの中では車に乗っているじぶんってのが
人間にだぶってるんだ。
かっこいいスポーツカーもあれば
ぼろぼろの車もあるけど
人間の外観なんてそんなもんでしょ。
で、乗っている人(理性かもしれないね)は
あっ、あの車カッコいいとか
すごく高そうとか
あんな車のりたくないなんて
おもうわけじゃん。
もうすこし車に詳しい人なら
足回りがいいとか
運転がうまいとか
最高速がすごそうとかってのもあるだろうな。
ぱっと見で中の人間を判断する人って
そうはいないと思うんだよ。
もっともカッコいい車に乗っている人が
ダサかったら目が行くかもしれないけどね。
だから人間の本質や中身なんて他人にわかるわけないってこと。
それをなんとかつたえようと
コミュニケーション手段をあれこれ考えている部分が
哲学にもあるってことなんだろう。
でも僕の興味があるのは深淵のほう。
同じ哲学でもコミュニケーション方面、政治・法律なんかもそうだけど
どうでもいいんだ。
だからぼろ車を洗車する方法じゃなくって
ひとりこっそり車の中で
じぶんの殻に閉じこもることにするよ。
本当に腰をあげるぞ
うだうだ書いているとなかなか次にいけないね。
気合と勢い
いよいよ19世紀にいってみよう。
でもね、偏見かもしれないけど
どうしても現代の哲学って対他人、対組織・世界ってのが
多そうな気がするんだよな。
人の世の中でどううまく生きるか、なんてね。
もっともぼくが哲学方面に興味を持ったのは
フッサールさんからなんだから
こんな風に考えるのって
矛盾といえば矛盾なんだけど。
そのまえにここまでで気になったこと
パート2も書いておこう。
じぶんってものがなにものなのか?
ってのがぼくの出発点。
じぶんがなにものなのかを考えれば
必然的に世界(宇宙でもいいよ)ってなにか?
ってところに行き着く。
ぼくがぼくなりに考えていたって思っていたことなんか
じつは2000年以上前から考えられていたってことだね。
でも結論は出ていない。
あたりまえかもしれないけど
人間には本質の部分は理解できないって
多くの人が認めちゃっている。
でも勘違いしないほうがいいかもしれないよ。
かれらは心の深淵に入っていった結果
なにものかに出会っているかもしれないんだ。
でもそれを伝える方法がなかった
ってだけかもしれないからね。
じぶんだけが納得するものとまわりがみんな理解できるもの。
あきらかにこのふたつは違うもんだと思うんだ。
ぼくとはなにものかと
ひととはなにものかは違うし
宇宙とはなにかと
ぼくにとっての世界とはなにかは
違うだろうしね。
他人に伝わらなくてもいいんだ
じぶんが納得すれば。
納得でもないかも
『グロク』(この言葉すごく好きなんだ。『異星の客』を読んでみて)
理解であり、共感であり、直観であり、一体であり、腑に落ちるってのかな
そうなればうれしいんだけど・・・
ぼくってなに?
世界ってどうなってるの?
死んだらどうなるの?
ってね。