ドイツ観念論
弁証法で有名になったヘーゲルさん。
分類わけをするとドイツ観念論のアンカーを務めた人
ってことになるんだね。
だから、ドイツ観念論ってのは
カントさんからはじまって
ヘーゲルさんで終わったことになっている。
この時代政治的にはごたごたした時代。
なんといってもナポレオンさんが
そこいらじゅうとけんかをしまくっていた。
宗教で言えば300年もまえから
(例のルターさんの質問状あたりだね)
ずっとごたごた続けていた宗教改革が
なんとかおちついてきたんだけど
そのおかげでこんどは『神』さまに対する
敬虔さが薄れていっていたんだ。
もちろん自然科学の発達で
世の中の事がすべて科学で解明できるっていう
風潮が流れていたのも原因のひとつだろうけどね。
哲学の世界でも、その影響を受けてかどうかはわからないけど
『理性万能』の方向性に進んでいた時代だったってこと。
そんな潮流の中で『観念』
とくに『神』ってものと
個々の人の精神の中に結ばれる『真実』ってのを
もう一度見直そうじゃないかってしたのが
ドイツ観念論ってことらしいんだけど
悲しいかなぼくにはもう一つわかっていないんだ。
科学万能っていうけど
それじゃ手に入らないものがあるよって
ところが言いたかったのかもしれないし
人間の理性には限界があるんだ
だから簡単にものごとがわかったような気にならないで
もっと考えようよってことかもしれないとはおもうんだけどね。
人間の理解できるのはじぶんの主観だけ。
ほんとうの全体像ってのは直接は手に入らない。
だから自分の主観を
限りなく『物自体』に近づける方法を考えるのが哲学だよ
ってことかもしれない。
カントさんも自分の『批判』ってのは哲学じゃない
哲学に踏み込むための準備段階でしかないんだよ。
って言ってるぐらいだから・・・
対立概念
カントさん。
結局人間の理解できるものは人間が認識した世界であって
世界そのものは理解できないんだよって
あきらめ(?)ちゃった。
あくまで「今のところは」って条件付きだったけど。
ヘーゲルさんも
哲学ってのはつねに現実の後追いをしているだけで
現実の先のあるべき世界の道しるべにはならない。
時間とともに流れゆくもののなかに
永遠・本質のものをみつけるのが
しごとなんだよって、ある種の達観した感じだったみたい。
弁証法で有名になっちゃったけど
ヘーゲルさん自身には弁証法を確立しようなんて
気持ちはなかったんだと思うよ。
時々刻々変化し
しかも主観でしかとらえられない世界の本質をいかにしてみつけるか。
そのことだけを考えていたんじゃないかな。
その方法としてソクラテスさんが問答法で
「一つの考え方が心に生まれるとどうしてもその中に矛盾が発生することがある。
その矛盾を解き明かして真理に近づくために
その考え方に疑問を投げかけ議論・問答したらいい」
という方法論をつきつめていっただけのような気がするんだ。
ヘーゲルさんの弁証法のやりかたを
簡単に書いてみるね。
ある命題(命題なんて堅苦しいことをいわなくてもいいけどさ)
があるとそれに矛盾する命題やその命題に反対する命題ってのが必ずある。
それらはお互いに反発しあっているように見えるけど
じつはその反発そのものがおたがいを結び付けている。
だから対立しているように見えて
じつは協調している対立命題を統合できる考え方を探すことによって
一段上の階層にいくことができる。
いつものことでわざとわかりにくくしてるんじゃないかって
思わせるぐらい複雑な書き方だね。
正確に他人に伝えるためには仕方がないのはわかるんだけどな。
それ以上に単語だってむずかしい。
テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼに
アウフヘーベンって
ことばだけで分かった気にはさせられるけど
どれだけ理解されているのか
いろんな人に聞いてみたいもんだ。
少なくともぼくには完全理解に程遠いところにいる
自信はあるけどね。
(胸を張ることじゃないな)
だけど調べていくと
面白い解釈もでてくるんだよ。
弁証法
「ある命題が生まれる」
これはわかるよね。
何かの疑問
「あれっ なぜ空は青いの?」とか
何かの出来事
「今日は雨が降っている」
なんてのがたしか命題だったはず。
命題には必ず矛盾が含まれる
ってここが一つ目のつまずき。
どうも調べてみると
英語では(ヘーゲルさんはドイツ語だろうけど)
『contradiction』
必ずしも矛盾ってもんでもないんだよね。
論理的に整合しない、でも
反している、でも
命題には必ず「それっておかしくない?」って考え方が
ついて回るってことだろう。
だったら空が青いにも雨が降っているにも
アンチテーゼってのは起こりうるってことにしてもいいかも。
(とは書いてみたものの空が青いとか雨が降っているのアンチテーゼって思いつかないな)
次に困っちゃうのが
命題とそれに反する(矛盾するでもいいけどさ)
命題を本質的に統合する真の命題が
導かれるってところ。
これって一見なるほどって思えるけどさ
この弁証法、命題vs反命題=真命題
その真命題vs反真命題=真真命題・・・ って
ず~っと続いていくわけじゃない。
どこまで行っても真の命題ってものに届かないんじゃないかな。
ひとつの回答は無いこともないんだよ。
「百聞は一見に如かず」ってことわざの
注釈(きっとだれかが後付けしたんだろうけど)に
目の見えない坊さんがはじめて象に出会ったとき
ある人は「象とは壁のようなもの」
ある人は「象とは棒のようなもの」
ある人は「象とは丸太のようなもの」って
言ったってはなし。
もちろん、だから百回聞くより
一回見たほうが早いよってことになるんだけど
真命題を導くためには観測する次元を増やしていく
しか方法がないってことになるって考えれば納得はつく。
観測の数じゃないんだよ
『次元』ってところがみそなんだけどさ。
人間なんて三次元の存在のくせに
ぎりぎり理解できるのは二次元まで。
一部の人は三次元を少しかじれるけど
なかなか全体を認識できないようにできてるんじゃないかな。
それが次元がどんどん増えていくとなると・・・
うわっ。
とてもじゃないけど
今のぼくじゃ太刀打ちできないじゃない。
論理学ってのが役に立つのかな?
それとも数学ってものならなんとかなるのかな?
文系のぼくだけど
もう一度勉強しなおさないといけないのかもしれないね。