神の存在証明
神の存在証明で述べられていることは
後世の人の感覚、とくに日本語で訳されているものについては
言葉による解釈の多様性ってものが顕著に表れているような気がするんだ。
デカルトさんはもともとキリスト教
それもカトリックの信者だったってのは事実。
「何事をもなしうる神が存在していて
この神によって私は現に実在しているようなものとして創造された
という意見が私の精神には刻みつけられている」
って、本人も言っている。
彼にとって、自然の摂理ってものとキリスト教における『神』ってのが
ほぼ同一に並んでいたってのもしかたがないことだろうね。
だから後世の人が彼の言葉を読み解くのに
『神』が何を指し示すのかってのはむずかしかったんだと思うよ。
ぼくはキリスト教徒じゃないから
デカルトさんの言う『神』がどちらにしても
とにかく絶対的な力を持った存在だって前提で読んでいるんだけど
これを敬虔なクリスチャンが考えたってことは
驚きに値するとおもうな。
彼は、ともかく疑うことからはじめたわけだ。
まわりのものを疑い、自分の身体を疑い
どれもすこしでも疑問が残れば排除するっていうスタンス。
とうぜんこれを突き詰めればなに一つ
確実なものは残らなくなってしまう。
だけど、その疑っているというじぶん
すくなくとも疑っている間はそうしているじぶんは存在している
ってところまでは行き着いた。
ふつうはそこで『良し』とするんだろうけど
でもちょっと待てよ、こうやって疑っている自分はそんざいしてる
って『神』が思わせてるんじゃないだろうか?
『神』がしなくてもこの上もない力を持ったものが
騙している可能性だってあるんじゃないだろうか?
って疑ったわけだ。
でも、もし騙されているとするのならば騙されているじぶんってのはあるよね。
騙されているなんてことがないのならば疑い続けている限りじぶんはあるよね。
だからどちらにしても
「われ思う、ゆえにわれあり」は成立するんだ。
ここでやっと懐疑に対する結論を得たってことになっている。
じつはおもいきり論旨を飛ばしているから
専門家の人からはブーイングが飛んでくると思うけど
キリスト教徒じゃないぼくからすれば
なんとなく納得できるような気がするんだ。
でも、キリスト教徒であるデカルトさんが
ここに行き着くってのは
懐疑論がどれだけ深く考えられていって
どれだけ完成されていたかって
感動するぐらいなんだけど。
300年もあとのラッセルさんが提唱した「世界五分前仮説」。
もちろんこの命題を論破するなんてできるわけはないけど
その懐疑のなかで生きていくことに対する
一筋の光明がすでにデカルトさんの時代に
見つかっているってことにならないかな。
機械論
機械論って聞いたことある?
ギリシャ時代にはすでにデモクリトスさんなんかが
言ってたんだけど
デカルトさんが出発点だってひともけっこういるんだ。
「ものがある」ってどういうことなんだろうって疑問があるよね。
ぼくにとってはそのものが感じられる(観測される、かも)
ってことなんだけど
デカルトさん流の懐疑だと人間の感覚でとらえられるものは
間違っている可能性があるわけだ。
だから、却下される。
でもね、じっさいに縦・横・高さの備わった
なにかはあるんだよ。
そこで、純粋に数学・力学的に対応するもののみ
ものとして認めようじゃないかってことにする。
それが機械論的発想ってことらしいんだ。
そこには心や精神なんてものが入る余地がないんだから
人間の感覚によって間違うってことを
すこしは緩和できちゃうじゃないかという
淡い期待。
この発想になる大元には
『明晰判明』をなんとか成立させたいってのがあったんだと思う。
だから『機械論』ってのを前面に押し出そうとしたんじゃなくて
付属として出てきたんじゃないのかな。
なんといってもデカルトさん
「われ思う、ゆえにわれあり」で
完結しちゃってるように思えるものね。
考えているじぶんは存在するってところまで
何とかたどり着けた。
土台ができたってところだよ。
とうぜんそこから「じゃあ、世界ってどうなっている?」
ってところに進むことになるよね。
でも、その方法論に至る道ってのは
じつはいまでも解明されてないんじゃないかな。
デカルトさんは「明晰判明の規則」なんてのを
持ち出してぎりぎりじぶんを納得させたことになっているけど
本人そこまで納得してたのかな?
だからといってデカルトさんを否定するわけじゃない。
それどころかほんとうにすごい人だと思うんだ。
存在と精神、ものとこころ
これらを本質的に異なる独立した二つの実体だって
考えただけでもすごい人だと思わない?
実体二元論
二元論
心と身体は別々のものでそれぞれ実態を持っている
ってのはデカルトさんにすれば
当たり前の発想だよね。
まわりにあるものからじぶんの身体まで
何もかもを疑って、すこしでも疑いのあるものは却下して
ついに行き着いたのが「考えてる自分」がいるじゃないかなんだから
身体と心が一体のものだってしたら
その結論にまた訂正を加えなくちゃならないもの。
身体のほうは当然物理法則にしたがい
心のほうは物理法則に縛られない
当然だと思うな。
身体ってのは存在・もの(空)だよね。
機械論の立場からいっても物理法則にしたがうわけだ。
心(意だよね)が物理法則に従ってしまうと
観察することができるはずないじゃない。
だからここまでは納得できるとおもうけどな。
でもそれはおかしいんじゃないかって意見が
そこいらで巻き起こる。
物理的な身体がどうして物理的でない心に影響を与えるのか
逆の場合だってそうだよね、って。
もしひとの『思い』がただ単に外部からの刺激に対しての
反応だけってことになれば心のもつ意味なんてなくなるし
物理的実体を持っていない心が物理的実体を持っている身体を
操れるとしたらその行動エネルギーはどんなものなのか。
たしかに腑に落ちないことはあるんだ。
もし物理的実体のある身体に心がなんらかの影響を与えるというのなら
心もなんらかの物理的実体がないとおかしい
って、たしかに納得できる意見には違いないよね。
そのうえ、デカルトさん自身も
心が身体に影響を与えるって発表しちゃった。
『情念論』のなかで
「人間は精神と身体とが分かち難く結びついている存在」である
って書いちゃったんだ。
もっともこの『情念論』
エリーザベトさんて女性にあてた論文ってところがあるから
多分にその女性の気持ちを思い図ったってところが
あるんじゃないかな。
ってのは、ぼくの勝手な思い込み。
いまでは『実体二元論』ってのは
あまり賛同を得ている説じゃないけど
ちょっと待ってよ。
物理的実体のものに作用するためには
作用を与える側にも物理的実体がいるって
だれが決めたんだろう。
物理的実体ってのを良く知っているわけじゃないけど
『時間』ってのにも物理的実体ってあるのかな?
ぼくたちが観測できるのは空(物理的実体)だけだよね。
時が観測できるのは空(物理的実体)の変化からじゃないの?
だったら意(心)が空(物理的実体)に干渉しているからって
心に物理的実体があるって決められるのかな?