濁流の中で

雑学を収集しようじゃないか雑学
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   近世から近代への架け橋

近世はちょうど変革の最中。

世の中の価値観なんかも変わっていくとともに

知識も増えていくとなると

現実に即した思想が中心になるのは仕方がない。

世の中平穏になれば知識の探求は

深淵へ潜っていくけど

世の中が激動の時代には

目の前の役に立つ技術・方法論へ思考は向かう。

これって人間の特性。

科学の進歩は戦争によってもたらされる

っていうのも正確には

科学技術の進歩は戦争によってもたらされる

ってことだもんね。

人が変化をしようとするときには

抑圧と知識がいるって書いたけど

この場合の知識ってのは現実に影響を与えるような知識の話。

だから、別に戦争状態でなくても

人が変化を求めるときは技術系が発達するみたいだよ。

ルネッサンスから始まる変化の時代も

いつまでも濁流のように流れていくわけじゃない。

人は変化をきらう生き物だって言ったじゃない

濁流に流されて流れ着いた先がなんとか安住できそうだってなったら

そこに定着してしまう。

こうして近世から近代へと哲学も変貌していく。

現実の技術論から精神の深淵へと

次の変革の産業革命時代まではね。

もちろん平穏の時代でも現実論を

激動の時代でも深淵をのぞき込もうとする人たちはいるけど

全体の流れはそんな感じじゃないかな。

落ち着けば「わたしは何者だろう」と考え

あわただしくなれば「わたしたちは何だろう」って考えるのは

当たり前のような気がしない?

で、近世の激動期の後半

激動のなかでも深淵をのぞき込もうとした人がいる。

近世から近代への架け橋だったのかもしれないけど

ぼくのなかでは歴史上1、2位のリスペクトする人物。

でも、実は若いころは馬鹿にしてたんだけどね。

   スコラ学

近世最後に語りたい人物の前に

ここに至る時代に盛んだった思想を少しだけ書いておこう。

中世・近世、やはりヨーロッパではキリスト教全盛期。

教育機関としては『修道院』が主流。

そして修道院でおしえることはやはり古典の権威ってやつ。

きみたちは考えなくっていいんだよ

真実はこうなんだからそのまま覚えなさい

って、むかしからあったような勉強法。

それでも、もう一つ官僚や僧侶の養成機関としてスコラ学ってのがあった。

どちらかというと西方教会(今のカソリックだよね)のほうが主流で

東方教会(正教会)の神学とはかみ合わなかったみたいだけど。

ぼくの知っていたスコラ哲学って

最大のテーマが信仰と理性で

神学の研究をする哲学のイメージだったんだけど

どうやらぼくの勘違いだったみたい。

だいたいからスコラって今のスクールの語源なんだから

純粋に教育、それも論理的思考を教えるところだったんだね。

たしかに『神』という存在を論理的に肯定するという

大命題はあったみたいだけど

数学・幾何学・自然科学・天文学

もちろん政治も法学も教えてたそうだ。

ルネサンス当時の人文学者(ギリシャ・ローマの古典が一番!って叫んでいた人たち)

から独断と偏見に満ちた学問だって

ぼろくそに言われてたから

ぼくが教えてもらっていた先生もそう思ってたんだと思うよ。

あっ、ぼくに教えてくれていた先生でおもいだした。

ぼくのリスペクトしている人ってのは

デカルトさんのことなんだけど

最近までじつは触らないようにしていたんだ。

若気の至りってかたずけちゃいけないけど

哲学なんかで『神』なんてのが出てきちゃうと

どうしても『キリストさん』だと思ってしまって

信じるか信じないか盲目的に選択させられる

どんなに不可思議なことでも

『神』のひとことで解決させてしまうもんだって

考えていたんだから・・・

じつは哲学者・科学者たちの言う『神』ってのは

そんなものじゃないらしいってわかったのが最近

なんとも恥ずかしいくって隠れてしまいたいぐらいだよ。

どうやらぼくに教えてくれた先生

反デカルト主義だったのかもしれないね。

デカルトさんの基礎にあるのは

キリスト教の『神』だって言ってたんだから。

最近になってちゃんとデカルトさんのことを

調べてみるとどうやら違うような気がするんだ。

『神』は出てくるよ。

でも、気をつけなくちゃいけないのは

その神ってのが人格神(この場合だったらイエス・キリストだね)

なのか、宇宙の摂理のことなのか。

とくに西洋の文献を読むときにはややこしくなるんだよな。

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