百聞は一見に如かず
このことわざ自体は
紀元前の中国でのはなしだね
羌の反乱を迎えて皇帝が
当時将軍として最高の評価を受けていた
趙充国という将軍に
羌の軍勢やその対処方法を問うた時に
趙充国が言ったといわれる言葉
皇帝の質問に対して
「百聞は一見に如かず
遠くからじゃ相手の兵力は測れない
だから早急に現地に行ってから答えることにしたい」
と いうようなことを返事したらしい
この『百聞不如一見』っていうのは
(百聞は一見に如かず)
「人から何度も聞くより 実際に自分の目で見たほうがよく理解できる」
と いう意味から
「どんなことも 自分の目で確かめてみるべきだ」
と いったような意味で使われるようになった
故事成語ってこと
まあ 故事の出典はただの余談だけどね
この「百聞は一見に如かず」をぼくに教えてくれた人が
(誰だったか忘れたけど)
説明してしてくれた逸話がすごく記憶の中に残っているんだ
だから少しだけ書いてみるね
もっとも本当に小さいころだったから
うる覚えでしかないんだけど
昔(何年前とかは無かったな)中国から数人の目の見えない僧が
仏教の教えを請いにインドへ渡ったんだとさ
そこで彼らは生まれて初めて
『象』っていう生き物に対面したらしい
もちろん彼らは目が見えないんだから
対面したといっても手で触れたってことだね
やがて中国に帰っていった彼らはインドのはなしを説いていく
その中で『象』という不思議な生物のはなしも出たんだ
「『象』ってどんな生き物ですか?」って
一人の僧侶は
「象とは壁のようなざらざらした生き物」
一人の僧侶は
「いや違う 象とは動き回る棒のような存在だ」
そしてもう一人は
「象とは丸太のようなものだ」
そう 答えたそうなんだ
ぼくに「百聞は一見に如かず」という故事成語を教えてくれた人は
この逸話が由来だよって教えてくれたんだね
存在と観測
目の見えない人が
それまでに何の予備知識のない状態で象に触れると
どのような情報を手に入れることができるのか?
もちろん 上に書いたことは
小話みたいなもんだよ
実際のところ
視覚がふさがれたとしても
隅々まで入念に触れていけば
初めに書いたような馬鹿げた話には
ならないだろうからね
ただ 『存在』に対してぼくら自身が『目の見えない』状態に
置かれていないと言い切れるだろうか?
『存在』の一部だけを
しかも 不完全な外部観測装置から入ってくる
限られた情報だけを頼りに
「ああでもない こうでもない」という
試行錯誤を繰り返している
そんな気がしちゃうんだよ
少し前までの物理学のように
ある程度まで実験観測を繰り返した事象
(入念に象の身体を触ったってことかも)
に対して考察するっていう姿勢は
なんとなくわかるんだ
でも 現在の物理学は
(自然科学全般かもそれない)
数学を使って観測の仕様の無いものにまで
その探究の手を伸ばそうとしているじゃない
たしかに 『数学』っていうのは
完成度が高いものだとは思うんだ
でも その完成度っていうのは
『言語』としての完成度じゃないのかな?
そんな風に 数学音痴のぼくは思っちゃうんだよね
『言語』なんていうものは他者とのコミュニケーションツール
ツールの完成度がいかに高くても
あくまでも哲学の域は超えられない
数学ってものはフッサールさんあたりから認知されだした
『現象学』を『数字』という言語に基づいて発展させたもの
って考えるのは ぼくの無知からなのかもしれないけど
代数学と幾何学
今書いていることはあくまでもぼくの偏見だよ
だけど もう少しぼくの独断と偏見を続けよう
じつは 量子力学と相対性理論を
軽く流し読みしたときに感じたことがあるんだ
けっしてどちらも ちゃんと理解しているわけじゃないよ
だけど 量子力学より相対性理論の方が
どことなくとりつきやすかったんだ
ぼくの勝手な判断だと
量子力学は代数表現 相対性理論は幾何学的表現
そんな気がするんだよね
もっというなら
量子力学はデジタル主体
相対性理論はアナログ主体って感じかな
もちろん どちらも単純に
ひとつの方法論で語られているわけじゃないけど
量子力学を図解説明しにくいと思うし
相対性理論を数値化するのは
難しいんじゃないかって思えるんだ
そして ぼくは論理的思考が好きなくせに
根本のところは直感的 もしくは感情的思考の
持ち主なんだろうね
だから イメージの出来ない理論には
どことなく違和感を持っちゃうんだと思うんだ
もちろん 人間に直感という概念は無い
そういう意見にも賛成だけど
論理の中軸(だと思う)とされる
『因果関係』に疑問が投げかけられている現在
人間の科学力(哲学も含めて)の限界が
あるように思えて仕方がないね
でも 悲しいけどぼくも人間(の はず)
見えない目で
象の身体を探りながら進んでいくしかないんだ
哀しいことだけどね
思い切り脱線しちゃったけど
この辺りでぼくの偏見に満ちた疑問と愚痴は
ひとまず終わろう
これまでダラダラ続けてきたようにテーゼ アンチテーゼ
そして ジンテーゼに向かえるかもしれない
はかない希望を抱いて特殊相対性理論に戻ってみよう
トライ&エラーを繰り返しながら
どこかに出口があることを祈るしかないもんね