特殊相対性理論に戻る前に その2

雑学を収集しようじゃないか雑学
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相関関係と因果関係

もう少しだけ因果関係に触れてみよう

仏教というか東洋哲学じゃ

因果ってものが同じものだって考えかたがある と

以前書いたような気がするんだ

「果は因に在り 因は果に在り」なんて

独特の言い回しだけど

もう一つ 『因』と『果』の違いとして

『縁』の作用の仕方だって考えもあるよね

西洋の現代風に言えば

『縁』は『作用素』だって考えかたに

近いかもしれない

『縁』にしても『作用素』にしても

これって時間経過ってものを

前提にしているんじゃないのかな

時間の長い短いはあるにしても

なにかのものごとが起こると

(事象Aだね)

なにかのものごとがおきるという

(事象Bとしよう)

時間が過去から未来へと一方向に進んでいるという

大前提があるように思うんだ

たしかにぼくたちの観測能力では

時間が一方向に進んでいる状況しか観測できないけど 

はたして実際はどうなんだろう? 

時間・空間なんてものは

(量子論じゃないけど)

ぼくたちが観測することによってあるだけで

この世界(『存在』かも)はすべての事象が

含まれたものなのかもしれないと思わないかな

事象Aと事象Bが観測できた

AとBとの観測時間にはタイムラグが観測された

AとBとの間には相関関係らしいものが観測できた

多く(とはいっても限られた数だろうけど)の観測結果で

AがおこるとBが続いて起きることが観測できた

だから AとBには因果関係がある

なんて 単純な発想が行われている

だけなのかもしれないよ

観測

量子力学でもそうだけど 

『観測』ってものはなんだろう? 

他の知的生命体には知り合いがいないし

動物や他の地上生物とは

コミュニケーションがうまく取れないから

ひとまず『人間』というもので考えてみよう

『人間』と『人間』にしたって

完全なコミュニケーションが取れるわけじゃないんだから

『人間』で考えるというより『ぼく』で考えるとしたほうが

良いかもしれないけど

単純に言えば

ぼくが周りの世界を観測しているのは

外部観測器官(受容器)が拾ってくる情報を

整理しているだけってことだよね

『今』入力された情報を

過去の経験や持っている知識で分類している

それだけのことかもしれないんだ

この単純な文 「入力された情報を分類する」 の中に

疑問として挙げられるいくつかの問題が

あるように思わないかな

まず 「『今』入力された」という部分

『今』っていつ? 

っていうのが一つ目だね

ぼくたちが一番頼りにしている視覚で単純に考えるよ

対象物が可視光線を発射した時点

(本体が発光でも他からの光を反射でも)

目にその可視光が到達した時点

網膜がその画像を感知した時点

その感知した情報を神経が脳に送った時点

脳がその情報を解析した時点

さてどの時点だろう?

そして 『時点』っていうのも問題

『点』とある限り時間軸上では幅が無いことになっちゃう

幅『0』の時間軸上に存在するモノを

ぼく(人間がでもいいよ)が認識することは

できないんだよね

もっとも 限りなく『0』に近い時間 

有限上の『0』の幅を

『時点』と解釈する方法はあるけど

もうひとつ

この有限上『0』の時点での映像っていうのは

イメージとしては

一枚の写真みたいなもんじゃないかな

ぼくの中では このイメージに『否』が明滅しているんだけど

『なぜ』って回答が出せないんだ

だから ひとまず写真みたいなものとしておこう

この静止した画像を その画像だけでは

人間が認識することはできないんだよね

人間は因果関係のあるものしか認識できない

ってことになっているみたいだから

認識

一枚の写真を理解しようとすると

過去にそのもの自体の画像に

触れたことがあるか

それに類する画像に触れたことがあるか が

ひとつの方法論になるよね

そのもの自体に触れたことがあるっていうのは

過去の経験ってやつ

でも 基本的には

同一画像に触れたという経験なんて

ありえないことだと思うんだ

似たような画像に

触れたってことはあるだろうけど

だから 経験によって

現状のモノを判断することはほぼ不可能

できるのは 経験から生まれた

『経験値』によって

類する画像と比較するってことだろうね

もう一つの 

一枚の写真を理解する方法として

持っている知識から類推するっていうのがある

極端な言い方をすれば

写真をじぶんの中で心象に変換して

持っている知識と照らし合わせて理解する方法

観測と認識

このふたつがぼく(人間)の

思考形態だと思うんだ

ところが 観測なんてものは

ぼくの外部観測器官が拾えた

一枚の写真のことだね

たしかに科学の発達に伴って

その拾える画像は増えてはいるけど

それにしても写真の枚数が

増えているだけってことじゃないかな

だから観測できた(る?)事象っていうのは

世界(宇宙というか『存在』だね)の

ほんの一部ってことになりそう

外部観測装置の限界 

(もちろん 科学的補助も含めてだけど) 

だけじゃなく

機会の有無もあるんだから

そして 認識に至っては

個人(人類全体でもいいよ)の

思い込みでしかないってことに

ならないだろうか

経験値からの類推にしても

知識からの類推にしても

そこには個(個人も人類も)による

フィルターが掛かるはずだからね

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