もう一度 血縁淘汰説
何度も書くけど
生物の目的が
『自己保存』 『種族保存』
だとするのが大前提だとするよ
そのために
進化が繰り返されていると
進化は個体の意思決定が
種としての表現型を
(外観や特徴だね)
決定していくという自然選択説も
前提に入れておこう
その考え方で行くと
「個体は利己的である」
という結論になっちゃう
でも 生物を観察していると
そこには利他的行動が
(自己犠牲)
あるんだよね
そこで ハミルトンさんは
個体が利己的なんじゃなくて
その個体の持つ遺伝子が
利己的なんだ
ってことにしちゃったんだ
進化
生物の目的が
『自己保存』『種族保存』の
2つだという前提(仮説かな?)で
ここまで書いてきているよね
(ぼくは今でも
『命』の目的はわからない
って方に一票なんだけど)
個体を中心に考えると
じぶんの子供(子孫)を残すことが
一番重要な命題になるわけだ
そのための自己保存
配偶者闘争の戦場を
なんとか勝ち抜こうとする
そしてその戦いに勝ったものの子孫が
残っていくって考えが
自然選択説の骨格なんだ
概要としては
すごく合理的に思えるよね
でも 自己保存と種族保存という
2つの主要命題があるっていうのは
矛盾を招きかねない
だって この二つの命題が
対立したときに
どちらかを優先しないわけには
いかないんだもの
自分の子供と自分自身との
優先順位を決めなくっちゃ
困るでしょう
だから 自己保存とは
種族保存のための
補助システムってことで
良いんじゃないかな
個体は自分の子孫を残すために
なんとか生き延びようとしている
って考えれば
生物の最大命題は
『種族保存』ってことになるよね
そうした結果
現在の(もしくはその種の最終形)
表現型が生き残ってきた
というのは正しいのかもしれない
ただ そこに
自己犠牲という形質を持つ個体が
少なからず観測されちゃう
ってところが問題とされたんだね
遺伝子
生物の目的が
『自己保存』『種族保存』の
2つあるって考えずに
『種族保存』という
一点に絞ってみたら
どうなるだろう
もっといえば
『種族保存』という言い方じゃなくて
個体という自分の遺伝子を
子孫につなげていくのが
生物の目的だ
って考えかただね
では 自分の遺伝子を残す
っていうのは
どういうことなんだろう?
ぼくたちの しかも今の日本で考えてみると
多くの考えは
直接的な自分の子供を作る
ってことだと思うんだ
すごく持って回った言い方だけど
少し前なら
直接の自身の子供より
『家』や『血族』なんていう
属している集団を
(群れなんかだね)
大事にする時代もあったけど
だから 『群選択説』なんて
考え方が出て来たんだもの
では 自分の子ってのは
なんだろうか?
血のつながりとか
自分の分身なんて言い方もあるけど
自分と同じ遺伝子を
(うまくいけば1/2くらいの)
持っているものって
言い方ができるんじゃないかな
自分の子を残すってことが
自分の遺伝子を残す
ってことだと考えてみてよ
これを遺伝子側から考えると
自分と同じ型の遺伝子の入った
個体を残していく
ってことになるよね
もしも 利己的なのは
個体じゃなくて遺伝子だとすれば
自分の遺伝子型さえ残れば
個体の存続は意味がない
ってことにならないかな
遺伝子の継続
人間と同じ繁殖様式をとる生物を
考えてみようよ
親から見ると自分の子供には
自分の半分の遺伝子が繋がっていく
ってことになるよね
これを遺伝子の側から見れば
自分の継続の確率が1/2ってこと
子供を作ると
生存確率が50%ってことだね
では 親兄弟でも考えてみようか
親も兄弟も
遺伝子の側から見ると
自分が子供をつくるのと同じ
50%の生存率(継続率かな)が
あるってことになるよね
そうなると
自分の持つ遺伝子を後世に残す方法として
自分ががんばって子作りに励むのと
兄弟が頑張って子を作るのとは
同じ価値があるってことになるんだ
もっとも自分の子供には50%の
兄弟の子供には25%の遺伝子が
残るってことだけど
自己犠牲を考えてみよう
個体を犠牲にして
(少なくとも倍以上の)
親・兄弟・子供を救うという選択は
その形質を持つ遺伝子を
後世に伝えるってことに
ならないだろうか
別に遺伝子が
そういう意志を持って動いていると
言うんじゃないよ
ただそういった行動が
自身が単独で繁殖した場合より
多くの遺伝子を
後世に残す可能性があるとしたら
その遺伝子のもつ形質は
自然選択によって生き延びる
ってことになるはずなんだ
より効率的な
(自分の遺伝子を後世に残すために)
生存可能性を秘めた遺伝子が
自然選択(自然淘汰)によって
種の主流を占めていく
ってだけのことなんだけどね