細分化
科学が発展していくと
細分化されて行って
訳が分からなくなるのかもしれない
って前にも書いたよね
研究を突き詰めていくと
どんどん深みに
はまっちゃうってことかな
『オタク』と『科学』を同じに並べたら
失礼だけど
(どちらに失礼かは問題だけど)
どんなものでも
突き詰めていった先にあるのは
袋小路だけかもしれないんだ
『オタク』の世界でも
各自の興味のある部分に向かって
歩み続けていくと
初めは同じ方向に向かっていた仲間たちが
いつのまにかバラバラに
ばらけてしまって孤立してしまう
なんて言うのは
よくある話だもんね
エンターテイメントの分野でも
(音楽でも絵画でもアニメでも)
突き詰めていくと
その方向性は
微妙にズレていくんだよ
ましてや科学の研究の分野だと
そのズレ幅は
大きくなっちゃうのかもしれない
その上
例の『和訳』(言語)の問題もある
もともと言語なんて
いい加減なものだもんね
それを無理やり
日本語に意味付けしようとするんだから
とんでもない訳され方にされても
仕方ないかもしれない
もしかすると
日本語では使い分けられている
学問ジャンルが
じつは同じジャンルだったなんてことも
あるかもしれないよ
まあ そんなことは
まず無いだろうけどね
生物の研究
エソロジーや行動遺伝学が
袋小路に入りかけたのも
そういった細分化の所為かも
しれないんだ
もしかしたら
生物学を自然科学の分野に
当てはめようとしたこと自体に
問題があるのかもしれない
それとも
『自然科学』ってものの捉え方を
『物理学』のように
実験・観測を中心に据えていることが
間違っているとか
生物学を
体構造というモノの探究と考えるのならば
自然科学の分野に分類しても
いいかもしれないけど
命・魂・精神
なんてもので考える場合
通常の実験・観測手法が使えるかどうかは
問題があると思うんだけどな
では 哲学は科学なんだろうか?
これも難しい問題だね
現代の哲学が
どうなっているのかは
わからないけど
一昔前までは
(ギリシャ時代も含めて)
「不思議なことに理屈を付ける」
っていう姿勢が
強かったような気がする
だからその中で
モノに対する研究方法と
心霊的なものに対する探究方法は
明らかに違っていたはずなんだ
生物の研究も哲学と同じ
モノに対する探究方法と
心霊的なものに対する探究方法を
模索する必要が
あるんじゃないのかな
学問としての生物学
生物学が科学を名乗ってしまった結果
生物を『モノ』として捉える研究が
主体となっちゃった
これは仕方のないことだね
人間の理解できる範疇に
(現在のところ)
心霊的なものは
入っていないんだから
けっして否定している
わけじゃないみたいだけど
いったん()に括って
保留しているって感じかもね
もしかすると
見えないふりをしているとか
幽霊を否定している科学者って
いないかもしれない
存在証明ができない存在として
(今のところ)
保留しているって
ところだと思うんだ
幽霊だけじゃなくて
『神』なんていうのも
そうかもしれない
あくまでも今のところはってことだけど
これが人間(今の)の限界
ってことなんじゃないだろうか
ただ 『モノ』としての観測可能な生物の研究から
生命ってものが垣間見えることも
あるかもしれないんだ
行動生態学
『生命』=『モノ』として観測する
このこと自体は
それほど研究として
違和感のあるもんじゃないよね
物理学の世界で言えば
『量子論』の方向みたいな
ものなんだから
生物の体構造を
細かく分解していって
それぞれの部品に分けていく
その部品の機能を調べる
もちろん量子論と同じで
分けられた部品も
より小さな構成要素に分けていって
それぞれを調べていくという
還元主義や合理主義という
自然科学得意の手法だね
だけどその研究を推し進めたところで
『精神』や『心』ってものの解明に
手掛かりが得られそうには無いんだ
もし ぼくたちの目に見えるような
手掛かりを得られるとしたら
社会行動をとる生物を
モノとして分析して
そこに進化という要素を
足していけば良いんじゃないかって
発想から出て来たのが
『行動生態学』ってものらしい
『個』の研究では
つかめなかった生物の生態を
『集団』としての行動を分析することによって
解明しようってことかな
自然選択説をベースに生物の行動を考える
エソロジー
遺伝学と心理学を組み合わせた
行動遺伝学
そこに生物の社会行動を
組み合わせていった
学門みたいな気がするな