2024-09

散歩の途中

だれの為に観測するのか?

死というものは人間にとって大きな考察対象の一つじゃないだろうか。ただ生と死の境界にはあまりにも巨大な段差がある。というより死について研究・観測しようにも方法が無いんだ。直接観測はもちろん 間接観測でさえできないんだからどうしようもない。科学は生きている人間についての研究。生きている人間にしか観測手段を持たないんだから。
散歩の途中

思考と感情

人間の精神は意だってことにしてみよう。人間 特に個の人間に存在意義が無い。そう言われても反論の仕様は無いだろう。だけどその存在意義が無いものがいろいろ考えたり怒ったり笑ったり そんな感情を発露させるのはなぜなのか。意が記録装置とすると簡単な話。感情や想いなんていうのはただの観測記録でしかない ってことかもしれない。
散歩の途中

セカンドの特異性 Ⅱ

生物という存在の目的は単純 必要以上に詰め込まれた水を時間内に排出するためにつくられた排水装置と考えればいい。排水装置の性能の優劣が生物の複雑化に相当するし その中でも最終能力を持つ排水装置がセカンド(人間)ということ。ただ高性能の機能を持つ装置を使用するのにはそれなりのリスクを伴う。人間は矛盾の塊 当たり前の話だ。
散歩の途中

セカンドの特異性 Ⅰ

人というのはなんだろう? 身体が人なのか心が人なのか? その二つが絡み合ったものが人だなんていうのは無責任な意見。どちらかが滅びた時残った方はどうなる? 体が壊れれば心も壊れるのか? 心が壊れれば体も壊れるのか? 健康寿命なんて言われるけど健康とは身体だけなのか? 心に健康は無いのか? う~ん わからないなぁ。
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